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[スタッフブログ] 『福岡市西区今津の元寇記念碑が修復されました』

初めに元寇記念碑が建立された『元寇防塁』とは・・・

13世紀初め、チンギス・ハーンは、アジアからヨーロッパにまたがる強大なモンゴル帝国を打ち立てました。その孫、5代皇帝フビライは、国名を元に改め、日本に使者を送り、通交を求めました。

しかし、鎌倉幕府はこれに応じなかったため、フビライは、1274年日本に攻め込み、博多湾西部に上陸、九州の御家人(武士)たちと激しい戦いを繰り広げました。この戦いで日本側は苦戦し、博多の街は大きな被害を受けました。

これを『文永の役』と言います。

 

鎌倉幕府は、元の攻撃に備えて、九州各地の御家人に命じて、1276年3月から約半年間という急ピッチで、博多湾の海岸沿いに約20kmにわたる石垣を築かせました。

 

この石垣のことを『元寇防塁』と言います。

1281年、元は再び日本へ攻め込んできました(弘安の役)が、『元寇防塁』に阻まれ、博多の地へ上陸することができませんでした。長引く戦いの最中、暴風雨などの天災に見舞われ、多くの軍船が大損害を被り、元は敗散したといわれております。

 

石碑 史蹟 元寇防塁

現存の元寇防塁

 

 

 

 

西区今津に所在する『元寇記念碑』は、1913年の発掘調査で明らかになった今津地区の元寇防塁を顕彰するために調査2年後の1915年に建立されました。

建立から100年以上が経過し、福岡西方沖地震や経年による劣化が著しく、地元有志によって『元寇記念碑保存会』が立ち上げられました。

弊社としては、歴的建造物は後世に残すべきだと考え、保存会様に寄付をさせて頂きました。

階段を上った先に記念碑が建立されました

白くなっている部分が今回修復された箇所となります

元寇記念碑 元寇殲滅之處(げんこうせんめつのところ)

元寇防塁を後世に伝えていくために建立された石碑

寄付された方々の芳名

 

今後も歴史的建造物が、後世の為にも、多くの皆様の協力のもと、保全されていくことを弊社としても願っております。

 

 

 

 

最後に、西区今津には、歴史的建造物だけではなく、色々な見どころも多くあります!!

綺麗な海に面して、景色も最高ですし、時期にもよりますが、いちご狩りも楽しめたりします!

また、糸島にも近く、お出かけや観光、デートにも最適なスポットですので、ぜひ、立ち寄ってみては!

営業部G

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